牛伏山山頂付近のこの場所、元々は一郷山城と言って、隣の多比良城主・多比良友定の家臣・安部之友が守る出城でした。しかし、永禄6年(1563年)の武田軍の侵攻により安部之友始め家臣全員討死、子女は崖から身を投げたそうです。
近年まで、何段にも分かれた切堀・土塁等が良好な状態で残っていたらしいですが、この「展望台」と言う名の城風建物や、駐車場・道路・トイレを作る為にみーんな平にしちゃいました。その下に眠る安部一族家臣子女の血も汗も涙も骨も、みーんな無かったかのように平にしちゃいました。そして、その上に墓碑ならぬ城風建物を建てた旧多野郡吉井町、それを「城」で無く「展望台」と名付けたのは、せめてもの良心の呵責…、か、定かでない。
その旧多野郡吉井町、こんな愚業が祟ってか、平成の大合併にて高崎市に吸収され今は高崎市内の只の(タダの)吉井町です。
同じく武田軍により多比良城も落城。多比良城は上杉山内家の宝物を収蔵しており、武田にされわれては末代までの恥と宝物を焼き捨て子女を自害させ、城主・多比良友定も自害して果てたそうです。ちなみに多比良友定と「上州の大鷹」箕輪城主・長野業政とは従兄弟にあたる。
450年程前のお話でした。 |