’12,5,18 箕輪城 |
不安定な天気からか午前中は雷鳴が聞かれたが、昼過ぎより回復、西風やや強く残るも、とりあえず雨は降りそうも無い。今日はライジン号、どちらに向かって走らせようか?。 よし、北西方面に進路を取れ、風に向かって走れ!。 出発は進雄神社、五穀豊穣、安全祈願。 |
そして、到着は箕輪城、、、跡。箕輪城というのは、旧箕郷町(今でも箕郷町なのかな?)数年前の市町村合併にて高崎市に編入され、今は高崎市箕郷町になってるのかもしれない所に位置する戦国時代の平山城です。ただし江戸時代に廃城され、今では空堀とわずかな石垣が残るのみです。 |
箕輪城って言うと長野業政です。長野業政、せめて上州の人なら本当は誰でも知ってて欲しいんだけど、でも、残念ながら新田義貞は知ってても、関孝和、内村鑑三、新島襄、塩原多助、みんな知ってても、船津伝次平さえ知ってても、長野業政を知る人は少ない。なぜかって言うと上毛カルタに詠われてないからです。群馬の男気と言ったら、国定忠次に、駒形茂平、木枯らし紋次郎なんてヤクザばっかしですが、長野業政です。上州の男気No1の武将です。 長野業政とは関東管領上杉家に属する重鎮。上杉憲政が越後に逃れた跡も北条に屈する事無く西上州にとどまり、武田の数度に及ぶ進撃をも退け、信玄に「業正がいる限り、上野(群馬)は取れぬ」と言わしめた武将です。 死去する前にその子に託した遺言は「死んだら塚でよし、法要は無用、敵の首をひとつでも多く供えよ、降伏してはならぬ、命運尽きたら潔く討死せよ、それが私への孝養」。そして、父の死後、子業盛は一度は武田軍を撃退するも、2万の武田軍に攻め入られ、父の遺言通り一族郎党と供に自害したと言われる。 業盛の辞世「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」 |
本日のルート、距離34.4km、最大標高差253m、累積標高登り440mでした。 行きは向かい風が強かったけど、その分帰りは楽だった^^。 |
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