’00,6,11 針の木峠 

 天正12年12月、越中の領主佐々成政が豊臣秀吉に対抗するため、三河の徳川家康との同盟を期待して、90余名の軍兵と共に雪の針ノ木峠を越えた。しかし諏訪にておこなわれた交渉は不調に終り、成政は再び軍兵を率い峠を越え富山に帰って行った。その後、成政は豊臣方の前田利家に敗れた。その際、再起を図る為の軍資金として、百万両の黄金を49個の壷につめて、針ノ木峠付近に埋めたと言う…。
 毎年、6月の第一日曜日、成政の黄金伝説を信じる山師達が、雪解けのガレ下の壷を求めて、針ノ木峠に集合する。不良隊も板垣隊長以下6名をその前日、フライングではあるが針ノ木峠に送り込んだ。結果、今年もまた、壷の姿は現れない、隊長は成政のたたりかスキーが弾いた石にて膝を負傷する…。
 そして、1週間後、不良夫婦も遅ればせながら、百万両の黄金を求めて針ノ木峠へと。「百万両見つけたら何買おうか!」「う〜ん、ヨステマーカー(スキー板)ほしいなぁ〜」「板は今年買ったばかりでしょう!」「そ、そうだった。じゃ…来週、立山行こう!」「うん、いいねぇ〜、みくりが池で特別料理頼んじゃおうか!」「でも、あれ、アイガモ料理とか言ってたよ、どうせなら雷鳥がいいなぁ〜」…不良夫婦の夢は尽きない。

 朝、目覚ましの音は雨の音に完全に負けていた。でも、前日、雨を覚悟でニューのカッパを用意した、行かねば…三万七千円(カッパ二つ)の投資を無駄にしてなるものかぁ〜!で、予定より40分遅れにての出発。しかし、雨の上信道、オリンピック道、共に交通量少なく2時間半にて扇沢に着く、予定通りだ。早速おニューのカッパを着込み、スキーを担ぎ出発する、すると雨もなぜか止み、そしてその後再び降る事は無かった。
 一年ぶりの針ノ木は雪が多かった、最後の砂防堤まで滑れる、そう、滑る事が出来る…が、この「が」が問題だ。石・岩・枝・木・泥!はっきり言って歩いて下った方が楽で早かった(2000M以下の部分)。でもでも、さすがに2000M以上、特に峠直下は立山の諸カールに負けず劣らぬくらい良い斜面、良い雪でした、2回登り返してしまった、満足・満足でした。 


「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し」・・・百瀬慎太郎

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