浦島太郎の出発
浦島は今日も亦例の岩で釣をしている。
大きな竿をもって、太い糸をもって、
糸の先には大きな釣針がついている。
彼の釣るものは何んだ。
誰も知らない、彼も知らない。
人々は彼を変人だと言って笑っている。
彼はそう言われることになれている。
そうして自分も変人ではないかと思っている。
浦島の生まれを村の人は知らない。
浦島自身は知っているのか?
しかし誰にも話したことはない。
彼は恐ろしい空想家だ。
夢と事実の区別が彼にはよくわからないのだ。
彼はこの世の人間にしてはあまりに空想家だ。
彼は釣をしながら何時もなにか考えている。
自分はこの国の人間ではない。
自分は漁師ではない。
自分は何処かの国の人間だ。
何処かの国の王様だ。
そうして何処かの国の王様の、
美しい姫君が今に自分を死ぬ程恋するのだ。
彼は本気でそう思っている。
そうしてそう言う国から、
彼を迎えにくるのを待っている。
待ちながら釣をしている。
今日も一日彼は海のあなたを見て暮らした。
其処からは彼を迎えに、
美しい舟が来るべきはずだと彼は思っているのだ。
美しい空と美しい海とが日の光にまぶしがりながら、
抱き合っている処から彼の迎いの舟が来ると、
彼は信じているのだ。
彼はこのことを誰にも話さない。
彼には話し相手がない。
一人微笑みながら嬉しい使いを待っている。
もう四五年の間待っている。
あきらめずに待っている。
彼は迎いの舟は明るい内に来ると思っている。
中でも朝早く来ると思っている。
彼はその日も一日待ち通した。
しかし彼は別に失望はしなかった。
そうして大きな釣竿をかつぎながら、
そろそろと家のほうへと帰って行った。
矢張りいろいろのことを考えて居た。
彼の頭は黙ってさえいれば独りでになにか考えている。
彼はよく石にけつまずく。
けつまずく瞬間には、
はっと外界のことに気がつくが、
すぐ又気がつかなくなる。
彼はそうやって歩いている。
足はおのずと彼を家のほうにつれてゆく。
朝はおのずといつもの岩に彼をつれていくように。
ふと彼は子供等のさわぐ声を聞いた。
彼は急に立ちどまってその方を見た。
彼は恐ったような顔をして子供等の処へ行った。
子供等は亀の子をつかまえて、
弄り殺しにしようとしているのだ。
浦島は一目その亀の子を見たら、
亀の子が好きになったのだ。
彼はその亀の子をくれろと言った。
自分にもらう資格のあるような顔をして。
子供は浦島よりも馬鹿ではなかった。
なかでも女の子は利口だった。
「いやなことよ」と女の子は言った。
それに力を得て男の子たちも
亀の子は自分達の玩弄物だ、
誰にもやれないとそう言った。
浦島は仕方がないと思った。
そうして助けることを思い切ろうと思った。
しかし亀の子を見ると、
なんだか自分に助けてくれと言っているような気がした。
浦島はぼんやり立って見ていた。
いい考えが咄嗟には浮かばなかったのだ。
子供達はなお面白がった。
亀の子をあっちにころがし、こっちにころがし、
投げ上げては受けとったりした。
子供等は亀の子を殺すのを恐れた。
そうするともう楽しめないからだ。
この時浦島にはいい考えが浮かんだ。
この子供の楽しみに勝つものがたった一つあることに気がついたのだ。
それは金の有難味だ。
こんな小さい子でも金の有難味を知らないことはない。
浦島は勢いこんで顔を真赤にして思い切って言った。
「その亀の子を売ってはくれないか」
子供等は一時に静まった。
「売って上げたらいいわ」
小さい女の子はそう言った。
「亀の子より菓子の方がいい」
こう露骨に小さい男の子は白状した。
そのくせ彼等は金を欲しがる事を隠しているのだ。
浦島は子供が満足するよりも、
少し余分に金をやった。
亀の子の値の安価なことは、
子供達も知っていたのだから。
浦島はその亀の子を買い取って、
大事そうにその亀の子を手にとった。
自分の小さい善行をいたわるように。
彼はそれを川の中に逃がしてやって、
「もう陸には上がるなよ、
恐ろしい子供には見つかるなよ、
そんなら達者でお家にお帰り、
お父さんやお母さんが心配して待っておいでだろうから、
道草をするものではないよ」
浦島はなんだか嬉しいのでついそう言った。
そうして喜んで家に帰った。
翌日の朝、浦島は早くおきた。
そうしてすぐ釣に出掛けた、
「今日は幸があるぞ、
胸の喜びがそう言っている」
浦島はそう思った。
そうして太陽のまだのぼらない、
しかし今に必ずのぼると言ったような、
霊気のある空気を深く呼吸した。
海岸に出た。
海がいつもよりなおなつかしかった。
彼は興奮してきた。
渚にいつもよりも力のある足あとをつけた。
そうしていつもの岩に陣どった。
「幸いあれ」
そう心のうちに祈った。
彼は悠々と釣竿を出した。
彼は嬉しくて仕方がなかった。
海のあなたが殊になつかしかった。
太陽はまだのぼらない。
だが刻々とその時が近づいてくる。
その時彼はあのあなたに何者かを認めた。
そのものが彼に近づいてくる。
少なくも彼はそう思った。
よく見ると恐ろしく大きな亀だ。
そうして彼の方に真一文字にくる。
「俺を見つめてくる」彼はそう思った。
その時彼の心の底では
昨日の亀を助けたと言う意識が頭をもち上げ出した。
だが彼はそれを向うからくる亀とむすびつける勇気はなかった。
亀は次第にくる。
彼に向ってくる。
彼は嬉しいような、恐ろしいような気になった。
彼は亀がただ偶然に自分の方にくるのだとは思いたくなかった。
だが自分に亀が用があるとも思えなかったのだ。
それでも彼が今亀が不意に姿を見せなくなったら、
がっかりするだろうと心の内では思っていた。
この時彼はある日の夢を思い出した。
実際彼はその夢を見たのか、見ないのか忘れている。
だが彼は見たとしか思えなかった。
それは亀に自分が乗って龍宮に行った夢だ。
亀はますます浦島に近づいてくる。
そうして浦島のいる真下にやってきて、
ぴたっととまった。
そうして浦島の方を見た。
この時浦島には亀の声が聞こえた。
「私は昨日たすけられた、
亀の子の父で御座います。
どんなにお礼を申していいかわかりません」
浦島は亀の子の種類がどのくらいあるかと
言うことは気にしてはいない。
この聞こえる言葉を信じないわけにはゆかなかった。
「そう御礼を言われては恐れ入ります。
ただ一寸した出来心だけでおたすけしたのですから」
「それでも私達はどんなに喜びましたろう。
どんなに有難がったで御座いましょう。
子供がもう殺されるものと観念しておりました時に、
あなた様に救われたのです。
子供の有難がったのに不思議は御座いません。
私達も有難く思いました。
この御恩は忘れません」
浦島は目に涙をためた。
自分のことを心から思ってくれているのは、
この世界にこの亀だけだと思った。
彼は子供の時には親に愛されたが、
この頃はすべての人に軽蔑されていた。
自分のもっている心の宝は誰にも認められなかった。
誰にも響かなかった。
「いえいえそう言われては面目がありません。
恥ずかしくって穴に入りたい気がします。
本当に一時の出来心だったのですから。
そうして少しでも犠牲を払わなければならなかったら私は助けなかったのですから」
「それでも貴君は出来心で私の子供を助けてくださったのです。
いたずらっ児も出来心で私の子を殺そうとしたのでしょうが、
出来心で殺されるのはたまりません。
しかし出来心で命を救われるのは感謝しないではいられません」
浦島は黙った。
彼は出来心で釣をして、魚を殺しているからだ。
亀はつづけて云った。
「浦島さん、龍宮へいらっしゃるお考えはありませんか」
「龍宮?
そんな所にこの私がゆけるのですか?
いえ、いえ、私は龍宮にゆける人間ではありません」
「もしいらっしゃれる人間でしたら、
そうして乙姫さまの夫になる資格のある人間でしたら、
あなたはこの世間でこそ一人前にもなれない方でしょうが、
龍宮にいらっしゃれば王様になれる方です。
必ずそうです。
私はそれを信じております。
乙姫さまはきっとあなたをお愛しになります。
あなたの内にあるいい処をお見つけんいなります。
そうしてあなたのいい処を日に照らされるようにきっとなさいます」
浦島は恐ろしさの前に黙った。
自分は余りに力のない人間だとしか思えなかったからだ。
だが浦島の心の底では力がわいて来た。
生まれて初めての力がわいて来た。
浦島には自覚が初めて呼び覚まされたように思えた。
自分の天職を初めて知ったように思えた。
浦島は自己の内に権威を感じだした。
自己の生まれたことを祝福した。
「自己はここでは一人前以下の人間、
だがかしこでは帝王、
帝王の資格のある人間。
ここでは心の優秀はもてあましもの、
だがかしこではそれが輝きだす」
浦島ははっと立ち上がった。
「たしかに龍宮にゆけますか」
「ゆけます」
亀が心の底からそう言ったように浦島は思えた。
「どうすればゆけます」
「私の背の上にお乗りなさい。
あなたに感謝しているものが、
あなたのよって生命より大事な、
わが子をすくわれたものが、
あなたを龍宮につれてゆきます。
どうぞ私の背におのり下さい」
浦島は権威ある者のように静かに岩から下りた。
そうして亀の背に乗った。
亀は静かに浦島を乗せて沖へといった。
浦島は今まで住んでいた土地に向かって、
別れを告げた。
「われを今まで育ててくれた土地よ、
私は心からあなたを愛する。
あなたは私を不要のものとして取り扱った。
だが私はあなたを愛している。
軽蔑されても、理解されないでも愛している。
遠くから愛してる。
その愛をあなたは感じないかも知れない、
寧ろ軽蔑するかも知れない、
いやがるかも知れない、
だが私は愛しないではいられないから愛する。
だが去らなければならないから去る。
私はあなたの土地では最も憐れな食客だ。
だが龍宮へ行けば王様だ。
私の価値はあなたの処では十重ニ十重に覆われる。
だがかしこでは輝きだす。
私は行く。
だが私に力があふれに、あふれてくれが、
私は又帰ってくるかも知れない」
陸からは誰もそれに答えるものはなかった。
ただ浜にいたものが、
浦島の亀に乗ってゆく姿を見た。
そうして人々は空想家の末路を笑った。
しかし誰も浦島を救おうとするものはなかった。
彼等にはそれ程浦島に未練はなかった。
またそれ程の暇もなかった。
やがて浦島の姿は消えた。
太陽は静かにのぼる。
武者小路実篤
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